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館長からのメッセージ

松下幸之助の生誕と父の強い願い
2011年11月

 松下幸之助は、父 政楠(まさくす)、母 とく枝との間に、明治27年(1894年)11月27日、和歌山県海草郡和佐村字千旦ノ木(現・和歌山市禰宜(ねぎ))という地で生まれました。男3人女5人の8人兄弟の末っ子でした。

 生家には、樹齢700年といわれる松の木がそびえ、このあたりでは「千旦の松」と呼ばれ、目印になっていたそうです(現在は、落雷や火災によって根元5メートルほどの部分が残るだけになっています)。松下という姓は、この松に由来すると思われると幸之助はいっていました。

 松下家は小地主で旧家であり、父は、34歳で村会議員に選ばれるなど、暮し向きはいい方だったようです。しかし、明治32年(1899年)幸之助満4歳の頃、父が米相場で失敗。父祖伝来の土地と家を人手に渡してしまいました。和歌山市内に移り住むことになった松下家は、下駄商を営みましたが商売は長続きせず、1、2年で店を畳むことになります。

 父政楠は、明治35年(1902年)に、単身大阪に移住し、私立大阪盲唖院に勤めます。しばらくして、父から手紙がありました。
「幸之助も、もう4年生で、もう少しで卒業するが、大阪の八幡筋にある心やすい宮田という火鉢屋で小僧がいるとのことであるから、ちょうど幸いだから幸之助をよこせ」
幸之助少年は、小学校4年終了を4ヵ月残して中退し、明治37年(1904年)11月23日、満10歳の誕生日を4日後に控えて、単身大阪に発つことになります。

 そして、幼くして大阪船場で奉公していた幸之助に、父は次のように言い聞かせたそうです。
「出世しなければならん。昔から偉くなっている人は、みな小さい時から他人の家に奉公したり、苦労して立派になっているのだから、決してつらく思わずよく辛抱せよ」
父から「商売で身を立てよ」と強く言われたことは、幸之助少年の胸に深く刻み込まれました。

 その父は、私立大阪盲唖院に勤めて4年ほどたった頃、幸之助11歳の時に、病でこの世を去ってしまいます。享年51歳でした。既に、二人の兄も病没していたために、幸之助は若くして松下家の戸主としての重責を担うことになります。後年、松下幸之助はこのように語っていました。
「父は先祖から受け継いだ多少の財産をなくしたことを済まぬと思うとともに、一人残った男の出世を、『どんなにかして』と強く期待しておったことが、今静かに考えてみるとよくわかる」

 15歳で奉公先の五代自転車商会を辞するまでは、家の事情に従っていたのですが、大阪電燈株式会社への転職を決意してからは、自らの意志で人生を歩むことになります。
父の強い願いが幸之助の心の奥底で渦巻いていたのでしょうか。その後、とてつもない大きな成功への道が開かれていくことになろうとは、幸之助自身、知る由もありませんでした。

 11月27日は、松下幸之助生誕117年になります。

引用・参考:佐藤悌二郎著「松下幸之助 成功への軌跡」PHP研究所刊

展示室「松下幸之助の歩んだ道」コーナー展示室「松下幸之助の歩んだ道」コーナー(写真左)
松下幸之助は何歳の時何を考えどう行動したかをご紹介しています

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松下資料館 館長 遠藤紀夫

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