松下幸之助に
ついて
松下幸之助の歩み
「松下幸之助の歩み」では、松下幸之助は何歳の時何を考えどう行動したか、
松下幸之助の年譜と考え方の一端を紹介しています。
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誕生、そして試練の時代
和歌山にて誕生
11月27日、和歌山県海草郡和佐村字千旦ノ木(現和歌山市禰宜)で松下政楠、とく枝の三男として出生。8人きょうだいで、村では上位に属する小地主の階級にあり、かなりの資産家であった。
父が米相場に失敗
父・政楠が米相場に失敗し、一家は和歌山市内に転居、下駄商を営む。しかしこれも長く続かず、政楠は単身大阪に移住、私立大阪盲唖院に奉職する。
前年からこの年にかけて
長兄、次兄、次姉相次いで病没
和歌山市雄尋常小学校(現雄湊小学校)に入学。この前後、長兄、次兄、次姉相次いで病没。
小学校4年で退学、
大阪で丁稚奉公に
小学校を4年で中途退学、大阪市南区(現中央区)八幡筋の宮田火鉢店に奉公する。
五代自転車商会に移る
火鉢店が店をたたむことになり、親方の知り合いの五代自転車商会に移り奉公する。新しい親方五代音吉は父・政楠の勤める盲啞院の創立者五代五兵衛の弟であった。
父が急逝
母・とく枝から大阪貯金局の給仕の仕事をしてはどうかという話があったが、父・政楠は「商売で身を立てよ。それがおまえのためだ」と反対。間もなくその父が病没。幼いながらも戸主となる。
会社員時代
大阪電灯に入社
路面電車が大阪市内を走るのを見て、これからは電気の時代、電気に関する仕事をしてみたいと考える。奉公生活に暇を告げ、義兄の協力を得て、大阪電灯幸町営業所に内線係見習い工として入社を果たす。
関西商工学校の夜学に通う
夜学に通う同僚に刺激を受け、関西商工学校の予科に入学。しかし、翌年予科は修了できたものの本科で挫折、退学する。
肺尖カタルを病む
前年からこの年にかけての時期、痰に血が混じったことから、医者に行き、肺尖カタルに罹患したと告げられる。
井植むめのと結婚
姉のすすめにより、大阪松島の八千代座という芝居小屋の前で見合いをする。9月4日、井植むめのと結婚。
独立・起業家の時代
会社を依願退職、独立
会社勤めを続けるには健康がすぐれなかったことと、みずから工夫改良したソケットを製造したいという思い、また昇格した検査員の仕事がもの足りなかったことなどの動機から独立を決意する。
松下電気器具製作所を創業
3月7日、大阪市北区(現福島区)西野田大開町844に松下電気器具製作所を創業。改良アタッチメントプラグ、2灯用差込みプラグを考案、製造販売を開始する。
「歩一会」を結成
松下電器の将来は全員一体の精神から、との思いのもと、"全員が歩みを1つに"をめざした従業員の親睦組織「歩一会」を結成する。
砲弾型電池式自転車ランプを開発
砲弾型電池式自転車ランプを考案し、製造に着手。発売当初、問屋に敬遠されて窮地に立つが、小売店で実物宣伝販売を実施、これが成功して販売が拡大する。
起業家から企業家へ、革新の時代
綱領・信条を制定
松下電器製作所に改称するとともに、綱領・信条を制定、公的な観点からの経営を志向する。
未曾有の不況を乗りきる
世界恐慌のあおりを受けて売行き不振、在庫急増の苦境に陥るが、打開する道がひらめいて実施。
不況突破に非常な喜びを味わう。
産業人の真使命に目覚める
天理教の本部を見学、その繁栄発展ぶりをまのあたりにして、事業経営のあり方に思索を重ね、その真使命を悟る。この年を「創業命知元年」と定め、5月5日、第1回創業記念式を挙行。
事業部制組織を採用、門真地区へ進出
事業部制組織を採用。事業の本拠を大阪府北河内郡門真村(現門真市)に移す。この年、創業以来事業に関わっていた妻むめのは仕事から離れ、家事に専念する。
株式会社に改組、分社制を実施
松下電器製作所を株式会社組織に改組し、松下電器産業株式会社とする。あわせて分社制を採用する。
戦禍と混乱の時代
やむなく民需から軍需へ
軍の要請で松下造船株式会社、松下飛行機株式会社を設立。
終戦とともに民需復活を宣言
8月16日、緊急経営方針発表会を開催、平和産業への復帰を通じて祖国の再建を社員に訴える。
GHQから7つの制限を受ける
松下電器及び幸之助が、GHQから財閥家族の指定、公職追放等7つの制限を受ける。
PHP研究所を創設
11月3日、国民生活の窮乏を打破し、日本に繁栄・平和・幸福を招来する活動を行なっていきたいと決意して、PHP研究所を設立、所長に就任する。
物品税の滞納王と報道される
負債が10億円となり、物品税の滞納王と報道される。
充実と発展の時代
制限解除と朝鮮特需
財閥家族の指定をはじめ諸制限の解除によって状況は好転、朝鮮戦争による特需景気で経営危機を脱する。
アメリカ視察の旅に出る
1月アメリカ、10月再び欧米を視察、世界的観点からの経営を志向する。
フィリップス社との提携
渡欧、オランダのフィリップス社との技術提携成立、合弁会社として松下電子工業が発足する。
「5カ年計画」を発表
電化ブームを予見、220億円の売上げを800億円まで高めようという大構想の「5カ年計画」を発表。
「週休2日制」の実施を発表
経営方針発表会で5年後における「週休2日制」の実施を表明。
社会起業家の時代
社長退任、PHP研究を再開
松下電器社長を退き、会長に就任。また昭和25年以降休止していたPHP研究を京都東山山麓・真々庵にて再開する。
営業本部長代行に就任
熱海で全国販売会社代理店社長懇談会を開催。改革の要を感じ、営業本部長代行に就任、経営を指揮する。
『人間を考える―新しい人間観の提唱─』刊行
人間の本質について、20数年の思索の結果をまとめた『人間を考える―新しい人間観の提唱―』を刊行。
松下政経塾を設立
10年の構想の末、財団法人松下政経塾を設立、理事長兼塾長に就任。
死去
4月27日、午前10時6分死去。