松下幸之助について

松下幸之助に
ついて

松下幸之助の歩み

「松下幸之助の歩み」では、松下幸之助は何歳の時何を考えどう行動したか、
松下幸之助の年譜と考え方の一端を紹介しています。

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誕生、そして試練の時代

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1894明治27年

和歌山にて誕生

11月27日、和歌山県海草郡和佐村字千旦せんだんノ木(現和歌山市禰宜ねぎ)で松下政楠まさくす、とく枝の三男として出生。8人きょうだいで、村では上位に属する小地主の階級にあり、かなりの資産家であった。

昭和42年頃撮影の生家跡遠景。名前の示すとおり巨大な松の木が立っていた
昭和42年頃撮影の生家跡遠景。名前の示すとおり巨大な松の木が立っていた

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1899明治32年

父が米相場に失敗

父・政楠が米相場に失敗し、一家は和歌山市内に転居、下駄商を営む。しかしこれも長く続かず、政楠は単身大阪に移住、私立大阪盲唖もうあ院に奉職する。

生家の長屋門
生家の長屋門

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1901明治34年

前年からこの年にかけて
長兄、次兄、次姉相次いで病没

和歌山市雄尋おの常小学校(現雄湊おのみなと小学校)に入学。この前後、長兄、次兄、次姉相次いで病没。

この頃から幸之助は次々と肉親を喪っていく
この頃から幸之助は次々と肉親を喪っていく

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1904明治37年

小学校4年で退学、
大阪で丁稚奉公に

小学校を4年で中途退学、大阪市南区(現中央区)八幡筋の宮田火鉢店に奉公する。

小学校4年で退学、大阪で丁稚奉公に
西心斎橋の八幡宮。宮田火鉢店が筋向かいにあったという

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1905明治38年

五代自転車商会に移る

火鉢店が店をたたむことになり、親方の知り合いの五代自転車商会に移り奉公する。新しい親方五代音吉は父・政楠の勤める盲啞もうあ院の創立者五代五兵衛の弟であった。

五代自転車商会店主夫人と。幸之助の最も古い写真
五代自転車商会店主夫人と。幸之助の最も古い写真

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1906明治39年

父が急逝

母・とく枝から大阪貯金局の給仕の仕事をしてはどうかという話があったが、父・政楠は「商売で身を立てよ。それがおまえのためだ」と反対。間もなくその父が病没。幼いながらも戸主となる。

大阪盲啞院の職員名簿。父・政楠の名がある
大阪盲啞院の職員名簿。父・政楠の名がある

会社員時代

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1910明治43年

大阪電灯に入社

路面電車が大阪市内を走るのを見て、これからは電気の時代、電気に関する仕事をしてみたいと考える。奉公生活に暇を告げ、義兄の協力を得て、大阪電灯幸町営業所に内線係見習い工として入社を果たす。

入社辞令
入社辞令

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1913大正2年

関西商工学校の夜学に通う

夜学に通う同僚に刺激を受け、関西商工学校の予科に入学。しかし、翌年予科は修了できたものの本科で挫折、退学する。

大阪電灯の配線工時代(3列目右端が幸之助)
大阪電灯の配線工時代(3列目右端が幸之助)

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1914大正3年

肺尖はいせんカタルを病む

前年からこの年にかけての時期、たんに血が混じったことから、医者に行き、肺尖はいせんカタルに罹患りかんしたと告げられる。

大正元年頃(左から2人目が幸之助)
大正元年頃(左から2人目が幸之助)

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1915大正4年

井植むめのと結婚

姉のすすめにより、大阪松島の八千代座という芝居小屋の前で見合いをする。9月4日、井植むめのと結婚。

むめののきょうだいとともに。後列左端から、幸之助(24歳)、井植歳男(三洋電機創業者)、むめの(23歳)
むめののきょうだいとともに。後列左端から、幸之助(24歳)、井植歳男(三洋電機創業者)、むめの(23歳)

独立・起業家の時代

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1917大正6年

会社を依願退職、独立

会社勤めを続けるには健康がすぐれなかったことと、みずから工夫改良したソケットを製造したいという思い、また昇格した検査員の仕事がもの足りなかったことなどの動機から独立を決意する。

退職辞令
退職辞令

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1918大正7年

松下電気器具製作所を創業

3月7日、大阪市北区(現福島区)西野田大開町おおひらきちょう844に松下電気器具製作所を創業。改良アタッチメントプラグ、2灯用差込みプラグを考案、製造販売を開始する。

改良アタッチメントプラグ
改良アタッチメントプラグ

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1920大正9年

「歩一会」を結成

松下電器の将来は全員一体の精神から、との思いのもと、"全員が歩みを1つに"をめざした従業員の親睦組織「歩一会ほいちかい」を結成する。

「歩一会」結成記念に、「歩一会」の制服姿で
「歩一会」結成記念に、「歩一会」の制服姿で

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1923大正12年

砲弾型電池式自転車ランプを開発

砲弾型電池式自転車ランプを考案し、製造に着手。発売当初、問屋に敬遠されて窮地に立つが、小売店で実物宣伝販売を実施、これが成功して販売が拡大する。

砲弾型電池式自転車ランプ
砲弾型電池式自転車ランプ

起業家から企業家へ、革新の時代

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1929昭和4年

綱領・信条を制定

松下電器製作所に改称するとともに、綱領・信条を制定、公的な観点からの経営を志向する。

綱領・信条の額
綱領・信条の額

未曾有の不況を乗りきる

世界恐慌のあおりを受けて売行き不振、在庫急増の苦境に陥るが、打開する道がひらめいて実施。
不況突破に非常な喜びを味わう。

市場に活気を呼び戻したいと初荷を挙行
市場に活気を呼び戻したいと初荷を挙行

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1932昭和7年

産業人の真使命に目覚める

天理教の本部を見学、その繁栄発展ぶりをまのあたりにして、事業経営のあり方に思索を重ね、その真使命を悟る。この年を「創業命知元年」と定め、5月5日、第1回創業記念式を挙行。

創業命知元年、産業人の真使命を明示した告辞文
創業命知元年、産業人の真使命を明示した告辞文

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1933昭和8年

事業部制組織を採用、門真地区へ進出

事業部制組織を採用。事業の本拠を大阪府北河内郡門真村(現門真市)に移す。この年、創業以来事業に関わっていた妻むめのは仕事から離れ、家事に専念する。

事業部制の説明をする(昭和9年)
事業部制の説明をする(昭和9年)

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1935昭和10年

株式会社に改組、分社制を実施

松下電器製作所を株式会社組織に改組し、松下電器産業株式会社とする。あわせて分社制を採用する。

当時設立された9分社(子会社)
当時設立された9分社(子会社)

戦禍と混乱の時代

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1943昭和18年

やむなく民需から軍需へ

軍の要請で松下造船株式会社、松下飛行機株式会社を設立。

12月 松下造船の進水式
12月 松下造船の進水式

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1945昭和20年

終戦とともに民需復活を宣言

8月16日、緊急経営方針発表会を開催、平和産業への復帰を通じて祖国の再建を社員に訴える。

厚司姿で戦後復興の陣頭指揮
厚司姿で戦後復興の陣頭指揮

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1946昭和21年

GHQから7つの制限を受ける

松下電器及び幸之助が、GHQから財閥家族の指定、公職追放等7つの制限を受ける。

松下電器の労組や全国の代理店などが署名した追放除外嘆願書
松下電器の労組や全国の代理店などが署名した追放除外嘆願書

PHP研究所を創設

11月3日、国民生活の窮乏を打破し、日本に繁栄・平和・幸福を招来する活動を行なっていきたいと決意して、PHP研究所を設立、所長に就任する。

昭和22年4月 月刊誌『PHP』創刊
昭和22年4月 月刊誌『PHP』創刊

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1949昭和24年

物品税の滞納王と報道される

負債が10億円となり、物品税の滞納王と報道される。

前年(昭和23年)の創業30周年時
前年(昭和23年)の創業30周年時

充実と発展の時代

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1950昭和25年

制限解除と朝鮮特需

財閥家族の指定をはじめ諸制限の解除によって状況は好転、朝鮮戦争による特需景気で経営危機を脱する。

松下電器及び幸之助が受けた7つの制限
松下電器及び幸之助が受けた7つの制限

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1951昭和26年

アメリカ視察の旅に出る

1月アメリカ、10月再び欧米を視察、世界的観点からの経営を志向する。

アメリカ視察の旅に出る
ニューヨーク街頭にて

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1952昭和27年

フィリップス社との提携

渡欧、オランダのフィリップス社との技術提携成立、合弁会社として松下電子工業が発足する。

10月 フィリップス社との技術提携の調印式
10月 フィリップス社との技術提携の調印式

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1956昭和31年

「5カ年計画」を発表

電化ブームを予見、220億円の売上げを800億円まで高めようという大構想の「5カ年計画」を発表。

1月の経営方針発表会の様子
1月の経営方針発表会の様子

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1960昭和35年

「週休2日制」の実施を発表

経営方針発表会で5年後における「週休2日制」の実施を表明。

1月の経営方針発表会の様子
昭和35年1月経営方針発表会

社会起業家の時代

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1961昭和36年

社長退任、PHP研究を再開

松下電器社長を退き、会長に就任。また昭和25年以降休止していたPHP研究を京都東山山麓・真々庵しんしんあんにて再開する。

昭和36年当時の真々庵
昭和36年当時の真々庵

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1964昭和39年

営業本部長代行に就任

熱海で全国販売会社代理店社長懇談会を開催。改革の要を感じ、営業本部長代行に就任、経営を指揮する。

3日にわたり行われた全国販売会社代理店社長懇談会
3日にわたり行われた全国販売会社代理店社長懇談会

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1972昭和47年

『人間を考える―新しい人間観の提唱─』刊行

人間の本質について、20数年の思索の結果をまとめた『人間を考える―新しい人間観の提唱―』を刊行。

『人間を考える―新しい人間観の提唱―』発刊時に
『人間を考える―新しい人間観の提唱―』発刊時に

84

1979昭和54年

松下政経塾を設立

10年の構想の末、財団法人松下政経塾を設立、理事長兼塾長に就任。

昭和59年8月 松下政経塾生と語らう
昭和59年8月 松下政経塾生と語らう

94

1989平成元年

死去
4月27日、午前10時6分死去。

5月25日に行われた松下グループ合同葬(松下電器体育館)
5月25日に行われた松下グループ合同葬(松下電器体育館)
松下幸之助について