松下資料館とは

館長からの
メッセージ

台風の時期に思うこと

 9月・10月は台風が襲来する季節です。今回は、昭和の三大台風の一つに数えられる室戸台風と松下幸之助について触れてみたいと思います。
 1934(昭和9)年9月21日、近畿一帯を吹き荒れた室戸台風は、死者・行方不明者3000人、負傷者1万5000人、家屋の全半壊8万8000戸という甚大な被害をもたらしました。大阪の産業界も企業活動ができないといった大変な状況でした。
 前年の1933(昭和8)年に、大開町から現門真市に移転した直後の松下電器も大きな打撃を受けました。当時、工場長をされていた後藤清一氏(後の三洋電機副社長)が語っておられるエピソードをご紹介します。

 風がおさまりかけた頃、松下幸之助が倒壊した工場に駆け付けました。出迎えた後藤氏が、「えらいことになりました。いっぺんずうっと見て回ってくれなはれ」と言うと、「かめへん、かめへん。きみ、こけたら立たなあかんねん。赤ん坊でも、こけっぱなしでおらへん、すぐ立ちあがるで。そないしいや」。そう言うと、幸之助はどこ吹く風といった様子で倒壊した工場を見ずに立ち去ってしまった。
 「こけたら立たなあかんねん」という言葉によって、工場の再建が即日始まりました。
 数日後に、幹部が幸之助のもとに招集されました。
 「ご苦労さん。今は会社も個人も被害を受けて大変なところやが、同様にお得意先もまたこの暴風下、無事であったとは思えない。いずれも松下電器と行動を共にして頑張ってくれている人たちや。ついてはお見舞金をお届けしたいと思う」。
 幹部・従業員たちは、見舞金やタオル・石鹸・パン・懐中電灯等を持って泥の海と化した大阪市内を回りました。「よう来てくれた」と、何軒ものお得意先から「抱きつかれて泣かれましたわ」と後藤氏は述懐しています。

 なぜ松下幸之助はどこ吹く風といった様子で倒壊した工場を見ずに、「こけたら立たなあかんねん」という言葉を残して去ったのでしょうか。私の推測では、社長である松下幸之助が右往左往するようでは、従業員たちは混乱してしまう。「工場を再建するしかないのだから、やるべきことをしっかりやってくれ」という泰然自若とした社長の存在を示したのではないでしょうか。明確な再建指示のもと、従業員たちの努力の甲斐あって、松下電器はどのメーカーよりも早く事業を再開することができました。

 また、松下電器の工場も8割方倒壊しているのに、松下幸之助は「お得意先にお見舞いをしよう」と幹部に指示を出しました。お得意先が感激しないわけはありません。温かい人間としての情が伝わったはずです。その後、お得意先が、松下電器の製品を販売する努力をしてくれたのは当然のことだと思います。

 後藤氏は述べています。「難しい経営学がありますが、人間としての温かい心のつながりが商売の根本である」。
 室戸台風の松下電器のエピソードから、松下幸之助の経営姿勢がよく伝わってきたのではないでしょうか。

秋の花を飾っています

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松下資料館 館長 遠藤紀夫